実行力のない人生を送ってる話

人生は行き詰ってる。夢も目標もない。

 

最近転職した。テキトーに受けて受かった会社にテキトーに勤めている。

 

万年金なし男の俺には風呂と数分のネットサーフィンの時間だけが最高の時間だ。趣味などあるはずない。

 

最近は実行力のなさを痛感している。

 

お金を貯めることができるのにできない、勉強しようと思って資格のテキストを持ち歩くも勉強しない。

 

そんな生活20年も続けてればそりゃダメ人間ができあがるよな。

 

自分は不幸だ。と常に感じている

 

それは事実ではない。正確には自分から不幸になりにいってる、だ。

 

幸せにはなりたい。小さくてもいいから地位は欲しいし富も欲しい。

 

努力するとはどういうことだろう、ダメ人間が努力できるようになる方法を教えてほしい。

 

やる気がないからだ、と言われれば、それはそう。となりそれでおわる。

 

じゃあやる気になって続けよう、とはならない。

 

いままで様々な成功者の話を聞いた、名言を知った、経営者の生き方にも多少触れた。

 

なんにも響かなかった。

 

今はこの気持ちをなんとかしたい、そのために書き起こしてみている。もしこのブログにたどり着いてしまった方がいたら駄文を詫びたいと思う。

 

 

 

明日からは小さくても変化できることを心の隅の隅の1ピースだけが望んでいる。

 

人生なんとかなる、と思って生きてきたが間違いだった。なんとかしようとすればなんとかなるものだ。

 

なんにもしなければそれはなんとかならず堕ちていくのだ。

 

 

努力を0から1にすること、性格をマイナスから0にすること、物事を継続すること、そのすべてが自分には永遠の課題かのように思えてくる。

 

変化の小ささにあせらない、現状の自分にあせらないよう気をつけながら今を生きることにする。

 

 

終着は大阪。

中国山地日本海を眺めていたのにいつの間にか太平洋と大阪のビル群が迫りくる。

 

 

見慣れた景色、聞きなれた音。遠く影も見えなかった日常は再び姿を現し自分に近づいてくる。

 

山陰特急の気動車のエンジン音だけが日常から引き留めてくれている。ふと窓の外を眺めると日本海が見える気がする。

 

線路は単線から複線になりやがて複々線になった。

 

最後のチャイムが鳴り、降りる支度をする。

三朝温泉一泊記

朝目覚めたとき、ふと「温泉行きたい、、、」そう思った。

 

せっかくなら三朝温泉まで足を運ぼう、そのままフラっと伯耆倉吉へ

 

一人生活圏から遠く離れたところへ。なにも考えずに一日でもいいから過ごしたい。そう思うようになっていたところに二連休。すぐ逃げた。

 

しかし、乗ろうと思っていた倉吉ゆきの特急スーパーはくとは間に合わず、だらだらと一日中電車に揺られ、休みを無駄する。

 

鳥取県に入る前に日が暮れた。鳥取駅からの帰宅ラッシュの満員電車に巻き込まれた。とことんついてない、そう思った。(計画性のなさは常。)

学生が大勢乗っている。幸せそうでいいな。学生服を見ただけでそう思えるくらいには負の感情でいっぱいだった。

 

 

 

 

三朝温泉についたのは21時。

 

なんでこんなに一日無駄にしちゃうのかなあ。自分ってばかだなあ。そう思いながらチェックインを済ました。

 

今回はたまたま予約できた依山楼(いざんろう)岩崎という宿にお世話になった。あとから調べて気づいたが大正時代には島崎藤村など文豪が泊まったこともあるという歴史ある旅館だった。歴史好きなのでうれしい。

 

そもそも三朝温泉は歴史が長く、この温泉は平安時代が由来とされている。白狼伝説といって、ある武士が年老いた白い狼を弓で射そうになったが見逃した。その狼は神様の狼だったらしく、神様がお礼に温泉の場所をお告げしたことが由来らしい。

山陰地方は土地柄たくさん伝説がありそうだが、白兎伝説しか知らなかった僕にとっては非常に新鮮で、そんな伝説の地にいることがうれしかった。

 

 

4階の客席に向かう。

一人で旅館なんて、、、客室を目にした瞬間そう思った。

予約したときにわかってただろ。

 

 

だが現実逃避したい自分にはぴったりだった。

 

 

 

静けさの中から唯一聞こえる三徳川の川音、肌感覚でもわかる泉質の良い温泉、そして独り占めできる客室。時間の流れが急激に遅くなった。

 

大浴場は内湯が一つ、露天が二つあった。正直どれも入りやすい。三朝温泉ラドン温泉といって自然治癒力や免疫力を高める効能がある放射泉らしい。僕は異常なほど皮膚が弱いせいか湯から上がった際体中がズキズキし、かゆくなってくるのだがここの温泉はそうならなかった。正直いろいろな温泉に行っているが初めてだ。これだけでまた来よう、そう思えた。

露天風呂は一つが投入堂を模したのかわからないが洞窟状になっているもので、そこがびっくりするくらい気持ちよかった。大浴場の案内板に長湯はしないほうがいいと書いてあったが気づけば長湯になっていた。すぐ出るのは非常に困難だ。

 

 

 

湯の冷めぬうちに布団に入る。時間の流れはさらに遅くなる。

 

永遠に続けばいいのに。

 

 

 

 

 

 

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低スぺPCから最新PCに買い替えた。

長いこと低スペックのノートパソコンで過ごしてきた。

 

画像編集はできないし、大学の授業もまともにうけれない。なんでもiPhone7でやったほうがましじゃん。となってワードもエクセルもiPhoneでやっていた。

 

しかし、iPhoneでの作業は非常にやりづらい。何度面倒で作業中断し大学の締め切りを過ぎたことか、、、

 

つい最近、やっとモバイルノートPCを購入した。クレジットカードの少ない枠をすべて使い切った。スペックもあまり見ずに購入した。一秒一瞬でもこの環境から抜け出したい、と衝動的に感じた。まさに衝動買い。

 

いままでのPCやiPhone7とは比べ物にならないくらい使いやすい。なんだったんだ今までは。こんなPC最初から使っていれば大学休学なんてしなかったんじゃないか。知らんけど。

 

最近ネットでよく言われる「低スペックのPCを持たせてもPC離れが進むだけだ。」というのがよくわかった。人はストレスになるものは避ける、当然だ。

 

正直今の仕事にPCは必要ない。上司がつくったスプレッドに文章入力するなどの作業はあるものの周りの人間はみんなスマホでやっている。自分もスマホで入力していた。時代はスマホなのかもしれない。理由はわからないがそれでもパソコンは使える人間になりたい。

 

 

 

なによりストレスなくブログをかけるのは幸せだ。せっかくなのでパソコンの勉強も再開しようとおもう。

1だけやる。

どうも。ADHD気味です。

 

ADHDかもしれない、いや違うかも、、、とか思い始めて数ヶ月は経ちました。

 

でも、やっぱりADHDではない可能性(ただの怠惰だったり)な気しかしない。

 

 

そんな中、自分で色々実践してみました。

 

1できればいい。

課題に取り組めない、起きれない。そんな自分が毎日悩んでいる諸問題は1できれば解決できる気がした。

 

朝、よく遅刻をする自分に科した課題。

 

1分起きる。

 

これはかなりありきたりな起床方法ではあるものの、自分はこれをやっていなかったなと気付かされた。

 

また、前日になんとなくメモをして残しておくことで何時までに何をする。というのをはっきりさせた。

 

それはここ数日の話ではあるが、何となく起きれている気がする。

 

メモは、5時に起きる、電車は何時の電車に乗る、今日は何する、とか備忘録的なもの。

 

これは休みの日でも使えた。何をするを頭の中だけでなくメモとして残っている方が自分はできるらしい。

 

忘れないからかな。

 

課題も、自分はめんどくさがりで終わらない物が多い。

 

そこで1だけ、1分だけやろうと決めて始めることにした。やる前からネガティブな感情になりにくい。1分だけでいいから。

 

人間は一個始めたらある程度はやるらしい。1分で終わらすなんてことは先ずなかった。

 

このように1だけでいい。と自分へのハードルを下げて取り組み始めることはこれからもやっていこうと思う。

 

1だけなら、なんでもできそうだ。

自分のことを過大評価しすぎて堕落する

小さい頃から自分はできる人間だった。

 

小学校の成績はクラストップで頭のいい人だとクラスメイトから評価されていたし、宿題や勉強なんかしなくてもテストで満点取れる。そんな人間だった。

 

もちろん学級委員なんかもしたし、中学受験の模試では国立大附属中学の合格ラインに達していると言われそこへ入ることも一時は検討した。

 

自分は勉強しなくても勉強を理解している。人より優れている。そんな思考が、たまたま小学校で好成績だった為に無意識的に植え付けられていた。

 

もちろん、その優等生は「天才」だと自分自身が一番そう感じていたので「努力」なんて言葉は頭のどこにもなかったし、宿題や自主勉強などしなくても学校の勉強についていけるのは常識であり当然だった。

 

そんな生活はもう10数年も前の話。

 

そんな人間、時間が経てば優等生から劣等生になるのは当然だった。

 

中学、高校と成績が当たり前のように落ちていった。

 

それでも自分は変わらなかった。今も変わっていない。

 

右肩下がりに落ちる成績と幸福度。

 

一次関数のように直線的に下がる一方で上がったことはなかった。

 

自分はできる人間だと思って生きてきた。努力しないと、と思った時期も何度かあったがその意識の下では「なんとかなる」精神が癌のように取り憑いていた。

 

自分でつけた「優等生」のレッテルは自分にこびりついて剥がれない。

 

そろそろ一次関数のでいうy軸の0を下回る。いやもう下回っているのかもしれないが。

 

その前に自分を甘やかしてきたレッテルたちを全て剥ぎ取り、まっさらな自分で新しい白紙のグラフで始めていきたい。

 

 

集中力が欲しい

勉強とかするときに、「集中しよう!」って思って始めるけど一瞬でその気合いは散り消える。

 

ここでの一瞬とは本当に一瞬。一分もない。

 

いつの時期もどんな状況でもそうだった。

 

受験勉強の時も、やる気がいつも以上にあった日も、課題が期限間近で今やらないと後がないと思っていた時も。

 

集中できない人間だと思っている。事実、人生で集中して何かに取り組んだなんてことはなかったかもしれない。

 

集中力はどこに消え去るのか考えてみた。そうすれば自分も集中できる「普通の人間」になれるかもしれない。

 

「集中しよう」と頭の中で考えるのが一種の号令に近いのではないか。

 

その号令がかかると一気に集中しようとする。目の前のタスク、そしてその時頭の片隅にでも残っていた考え事。

 

頭の片隅に転がっていた考え事とか周りのある種の異変探しに集中しだすのではないか。そう感じた。

 

一つのことに集中するにはこの号令をやめないといけない。そう思った。

 

そう考えると、気合入れて何か始めるよりなんとなく始めた方がいいのかもしれない。

 

特に課題や勉強はやるぞと思ったらネガティブな感情も芽生える。

 

そうして一分も経たないうちにやる気よりもやりたくない感情が追い越して、違うことを考えるのに夢中になっている。そんな気がする。

 

普通の人間になりたい。